溶明と溶暗 [独り言]
溶明と溶暗。
溶明は、画面や舞台が、暗い状態からじょじょに明るくなり最大の明るさになる事。 溶暗は逆に、明るい所からだんだん暗くなって真っ暗になる、という映画・演劇の専門用語である。
どちらの言葉も、脚本・戯曲を捲っていると何度となく現れるので、映画や演劇がお好きなかたにとっては 馴染み深い言葉である。
この溶明と溶暗という言葉、私は個人的に非常に好きである。
同じ意味でも、横文字でF.I(フェード・イン) F.O(フェード・アウト)と書くのと まるで趣が違ってくる。
そこには、そこはかとなく文学の香りが立ちのぼってくるからである。
尤も戯曲は昔から 文学の一ジャンルとして認められているが、単なる設計図・指示書としてしか見なされていない脚本にも、これらの文字を見つけると、ぐっと奥行きと深みの色を感じずにはおれなくなる。
この二つの言葉、散文の中でも 文学的マチエールでまとまっているものであれば、入れ込むことによってキラリと輝く効果を得られるのではないか と思う。
例えば----
「私の中から不安の要因が一つまた一つと消えてゆき、そしてついには一つもなくなり、私の心は溶明した」というように----。
試しに今度一度 使ってみようと考えている。
溶明は、画面や舞台が、暗い状態からじょじょに明るくなり最大の明るさになる事。 溶暗は逆に、明るい所からだんだん暗くなって真っ暗になる、という映画・演劇の専門用語である。
どちらの言葉も、脚本・戯曲を捲っていると何度となく現れるので、映画や演劇がお好きなかたにとっては 馴染み深い言葉である。
この溶明と溶暗という言葉、私は個人的に非常に好きである。
同じ意味でも、横文字でF.I(フェード・イン) F.O(フェード・アウト)と書くのと まるで趣が違ってくる。
そこには、そこはかとなく文学の香りが立ちのぼってくるからである。
尤も戯曲は昔から 文学の一ジャンルとして認められているが、単なる設計図・指示書としてしか見なされていない脚本にも、これらの文字を見つけると、ぐっと奥行きと深みの色を感じずにはおれなくなる。
この二つの言葉、散文の中でも 文学的マチエールでまとまっているものであれば、入れ込むことによってキラリと輝く効果を得られるのではないか と思う。
例えば----
「私の中から不安の要因が一つまた一つと消えてゆき、そしてついには一つもなくなり、私の心は溶明した」というように----。
試しに今度一度 使ってみようと考えている。
南天の実 [独り言]
私は幼少の頃、南天の実を食べていた。
その時住んでいた福岡の家の裏庭に この季節になるとたわわと生るのを、伸びあがって 小さな手でつまんでは小さな口に放り込んでいた。
別段 美味しくはなかった。 かといって、不味くもなかった。
それは粉っぽくて ちょっと青臭いだけの味だった。
別に、喉にいいと言われるからとか そういった理由で食べていたのではないし、それ以前に、毒ではないという知識すらなかった。
私が南天の実を食べていた理由はただ一つ、「赤かった」からである。
赤くて小さな実には、子供心を夢中にさせる蠱惑があった。
私は南天の実を次から次へと食べることで、自分が小鳥にでもなれる気がした。
深紅の粒を食むことで、ここではないどこかへ羽ばたいてゆける気がした。
食べ了えると、私はいつもの色黒の口数の少ない幼児に戻った。
南天の実は、つかの間、私を 晴れ渡った冬の日の天空に運んでくれる 小さな秘密の装置だったのだ。
その時住んでいた福岡の家の裏庭に この季節になるとたわわと生るのを、伸びあがって 小さな手でつまんでは小さな口に放り込んでいた。
別段 美味しくはなかった。 かといって、不味くもなかった。
それは粉っぽくて ちょっと青臭いだけの味だった。
別に、喉にいいと言われるからとか そういった理由で食べていたのではないし、それ以前に、毒ではないという知識すらなかった。
私が南天の実を食べていた理由はただ一つ、「赤かった」からである。
赤くて小さな実には、子供心を夢中にさせる蠱惑があった。
私は南天の実を次から次へと食べることで、自分が小鳥にでもなれる気がした。
深紅の粒を食むことで、ここではないどこかへ羽ばたいてゆける気がした。
食べ了えると、私はいつもの色黒の口数の少ない幼児に戻った。
南天の実は、つかの間、私を 晴れ渡った冬の日の天空に運んでくれる 小さな秘密の装置だったのだ。
かまぼこ嫌いの理由 [独り言]
ぼんぼちは、かまぼこが嫌いでやす。
蕎麦屋で一杯やる時、間違っても板わさは所望しやせんし、かけそばに一切れ乗っているのも残しやす。
なんで かまぼこをそんなに嫌うのかって?
それには深い理由(わけ)があるのでやす。
今日は、あっしがかまぼこ嫌いな理由を、みなさんにだけ そっと打ち明けたいと思いやす。
あれは、あっしが前世でノラ猫だった頃のことでやす。
あっしは顔を硯に突っ込んだ様な 鼻先の黒い牛柄の痩せこけた雄猫で、とある郊外の住宅街をねじろにしてやした。
あっしは、近所の良心的な人がくれるカリカリのキャットフードやゴミ置き場のゴミを漁って その日その日をしのいでおりやしたが、同じねじろには、あっしより強い猫が何匹もいたので、あっしはいつも おこぼれをほんのちょびっとしか食べられず、日々、腹をきゅーきゅー鳴らしておりやした。
そんなある日、-----ちょうど今と同じくらいの年明けしばらくしてからの小寒い日の夕-----
ぽつねんとゴミ置き場にたたずんでいると、目の前に ポン!とゴミが置かれたのでやす。 収集時刻にはまだまだ間があるというのに。
-----かまぼこの匂いがしやす!
かまぼこは、あっしらノラ猫にとって 特上のご馳走でやす。
あっしはこんなチャンスは又とないと、袋をビリビリと破り 袋内のどこかにあるかまぼこを探しやした。
縁がピンクで赤く「寿」と描かれたかまぼこが五枚 見つかりやした。
あっしは「寿」を、人間界の文字という意味のあるものだとは知らずに、単なる図柄だと思いやした。
けれど、そんなことはどうだっていいのでやした。
あっしは寿のかまぼこに食らいつきやした。
だいぶ粘り気があるな と思いやした。そして何か変な匂いもするな とも。
でも、かまぼこはかまぼこでやす!
あっしはむしゃむしゃと五枚の寿を平らげやした。
しかし----
変な匂いは、あっしの胃袋から鼻腔にいつまでもまとわりついていて、あっしは思わず ゲホ!と ひとかたまりに吐き出してしまいやした。
吐き出した後も変な匂いはあっしの内から消えず、何とも言い難い不快感だけが残りやした。
この忌まわしい前世の記憶は、こうして現世でかまぼこを目の当たりにする度にもよみがえってくるのでやす。
そんな理由で、ぼんぼちは、かまぼこが嫌い という訳なのでやす。
蕎麦屋で一杯やる時、間違っても板わさは所望しやせんし、かけそばに一切れ乗っているのも残しやす。
なんで かまぼこをそんなに嫌うのかって?
それには深い理由(わけ)があるのでやす。
今日は、あっしがかまぼこ嫌いな理由を、みなさんにだけ そっと打ち明けたいと思いやす。
あれは、あっしが前世でノラ猫だった頃のことでやす。
あっしは顔を硯に突っ込んだ様な 鼻先の黒い牛柄の痩せこけた雄猫で、とある郊外の住宅街をねじろにしてやした。
あっしは、近所の良心的な人がくれるカリカリのキャットフードやゴミ置き場のゴミを漁って その日その日をしのいでおりやしたが、同じねじろには、あっしより強い猫が何匹もいたので、あっしはいつも おこぼれをほんのちょびっとしか食べられず、日々、腹をきゅーきゅー鳴らしておりやした。

ぽつねんとゴミ置き場にたたずんでいると、目の前に ポン!とゴミが置かれたのでやす。 収集時刻にはまだまだ間があるというのに。
-----かまぼこの匂いがしやす!
かまぼこは、あっしらノラ猫にとって 特上のご馳走でやす。
あっしはこんなチャンスは又とないと、袋をビリビリと破り 袋内のどこかにあるかまぼこを探しやした。
縁がピンクで赤く「寿」と描かれたかまぼこが五枚 見つかりやした。
あっしは「寿」を、人間界の文字という意味のあるものだとは知らずに、単なる図柄だと思いやした。

あっしは寿のかまぼこに食らいつきやした。
だいぶ粘り気があるな と思いやした。そして何か変な匂いもするな とも。
でも、かまぼこはかまぼこでやす!
あっしはむしゃむしゃと五枚の寿を平らげやした。
しかし----
変な匂いは、あっしの胃袋から鼻腔にいつまでもまとわりついていて、あっしは思わず ゲホ!と ひとかたまりに吐き出してしまいやした。
吐き出した後も変な匂いはあっしの内から消えず、何とも言い難い不快感だけが残りやした。
この忌まわしい前世の記憶は、こうして現世でかまぼこを目の当たりにする度にもよみがえってくるのでやす。
そんな理由で、ぼんぼちは、かまぼこが嫌い という訳なのでやす。
春の匂い [独り言]
季節季節の変わりめになると、新たな季節の匂いというのを感じる。
それは、花の匂いや雨の匂いや草いきれといった具体的なものではなく、もっと遠い所にある そして奥深い部分で感じる匂いである。
匂い・・・・・というか、空気である。
「・・・・・・あ、今日は昨日までとは空気が変わったな」 と。
何がどう変わったのかと理論的に説明は出来ないのだが、何かこう明らかに「空気」が変わるのである。
これは、人間が 半ば失いかけている本能なのではないかと思うのだ。
文明の進んだ人間にとっては必要がないから 捨てつつある本能ではないか と。
だから、動物達はもっとはっきりと この季節の変わる空気を感じとっているのではないだろうか。
新たな季節の匂いを最も強く感じるのは春である。
春の匂いが感じられるのも もうじきである。
それは、花の匂いや雨の匂いや草いきれといった具体的なものではなく、もっと遠い所にある そして奥深い部分で感じる匂いである。
匂い・・・・・というか、空気である。
「・・・・・・あ、今日は昨日までとは空気が変わったな」 と。
何がどう変わったのかと理論的に説明は出来ないのだが、何かこう明らかに「空気」が変わるのである。
これは、人間が 半ば失いかけている本能なのではないかと思うのだ。
文明の進んだ人間にとっては必要がないから 捨てつつある本能ではないか と。
だから、動物達はもっとはっきりと この季節の変わる空気を感じとっているのではないだろうか。
新たな季節の匂いを最も強く感じるのは春である。
春の匂いが感じられるのも もうじきである。
偽のプロフィールをかたる人達 [独り言]
二十代後半の頃、カクテルラウンジでアルバイトをしていたことがある。
その店はかなり気どった 非日常的な空間を提供する店だった。
そういった店だったからか、職業や在学校を偽る客が 時々いた。
例えば----
どう見ても普通のサラリーマンの中年男性が、「僕はテレビのプロデューサーなんだよ」と ポーズをつけてカウンターに肘をついた。
タレントの誰とかとは親しいなどとひとしきりしゃべった。
会計時、私は、「ゲー千デー百円になります」と言うと、「は?何それ?」と、ぽかんとした顔。
ゲー千デー百円とは五千二百円のことで、芸能業界・音楽業界の隠語である。
私は、昔 父が音楽の仕事をしており テレビの歌番組のバックのオーケストラで演奏をしていたので知っていたのだ。
業界の隠語を知らないプロデューサーなど いるわけがない。
又これも、どう見ても普通のサラリーマンが、「私は医者でね、今日は学会があってね」
あー、忙しかった、とおしぼりで顔を拭いた。
何科のお医者様なのですか?と尋ねると、脳外科であり産婦人科でもあるという。
そして、「女性は十回以上、妊娠・堕胎を繰り返すのが身体にいいんですよ。どんどん妊娠してどんどん堕ろしなさい」と、私ら女性スタッフに講釈をたれた。
脳外科であり産婦人科でもあるなんて 聞いたことがない。
しかも、妊娠・堕胎を繰り返すのが身体にいいなんてことも。
若い男性客が来た。医大生だという。
どこの医大に通っているのか聞くと、「早稲田の医学部」だという。
-----早稲田に医学部はありませんよ。

我々従業員は、接客中は仕事だから 大真面目な顔をして、相槌を打ったり 「すごいですねー」「大変ですねー」と相の手を入れるが、客が帰った後は大爆笑である。
「あれでバレてないと思ってるのかねーーー!!」と。
つかの間、憧れの者になってみたい心理は理解できなくもないが、偽りのプロフィールをかたるなら、会話して嘘が露呈しないだけの裏付けの勉強くらいしたらどうかと思う。
最近は、フェイスブックで偽りのプロフィールをかたる人がいると聞く。
本人は夢が見られて気持ちがいいかもしれないが、周囲からしたら滑稽きわまりない モノ笑いのタネであろう。
その店はかなり気どった 非日常的な空間を提供する店だった。
そういった店だったからか、職業や在学校を偽る客が 時々いた。
例えば----

タレントの誰とかとは親しいなどとひとしきりしゃべった。
会計時、私は、「ゲー千デー百円になります」と言うと、「は?何それ?」と、ぽかんとした顔。
ゲー千デー百円とは五千二百円のことで、芸能業界・音楽業界の隠語である。
私は、昔 父が音楽の仕事をしており テレビの歌番組のバックのオーケストラで演奏をしていたので知っていたのだ。
業界の隠語を知らないプロデューサーなど いるわけがない。
又これも、どう見ても普通のサラリーマンが、「私は医者でね、今日は学会があってね」
あー、忙しかった、とおしぼりで顔を拭いた。
何科のお医者様なのですか?と尋ねると、脳外科であり産婦人科でもあるという。
そして、「女性は十回以上、妊娠・堕胎を繰り返すのが身体にいいんですよ。どんどん妊娠してどんどん堕ろしなさい」と、私ら女性スタッフに講釈をたれた。
脳外科であり産婦人科でもあるなんて 聞いたことがない。
しかも、妊娠・堕胎を繰り返すのが身体にいいなんてことも。
若い男性客が来た。医大生だという。
どこの医大に通っているのか聞くと、「早稲田の医学部」だという。
-----早稲田に医学部はありませんよ。

我々従業員は、接客中は仕事だから 大真面目な顔をして、相槌を打ったり 「すごいですねー」「大変ですねー」と相の手を入れるが、客が帰った後は大爆笑である。
「あれでバレてないと思ってるのかねーーー!!」と。
つかの間、憧れの者になってみたい心理は理解できなくもないが、偽りのプロフィールをかたるなら、会話して嘘が露呈しないだけの裏付けの勉強くらいしたらどうかと思う。
最近は、フェイスブックで偽りのプロフィールをかたる人がいると聞く。
本人は夢が見られて気持ちがいいかもしれないが、周囲からしたら滑稽きわまりない モノ笑いのタネであろう。
なくて七癖 [独り言]
みなさんは、何か癖を持っておいでですか?
たいていの人は、癖の一つや二つは持っておられるのではないでしょうか?
私は座って人と話をする時、片手の甲を腰にあてるのが癖です。
フォークダンスの基本ポーズの あの手の配置です。
あまり格好のいいものではないと解かってはいるものの 誰れかを不快にさせる癖ではないので、直そうとは思っておりません。
掌の方を腰にあてて威圧的に見えるより遥かにマシなのではないかと、一人言い訳をしたりしています。
一方、直さなければいけないなぁと考えている癖もあります。
会話中に「それで」とか「それから」とか言えば通じるところを 「だから」としばしば言ってしまうことです。
相手に「さっきから何度も言っているでしょう。なんで解からないの?」というようなニュアンスに受け取られかねないので、こちらは直そうと努力しています。
けれど、ポーズの癖にしろしゃべりの癖にしろ、一つの癖が直ったら又別の癖が出現する・・・・・・そういうものかも知れません。
なくて七癖なんて言葉もあるくらいですからね。
苗字について [独り言]
みなさんは、ご自分の苗字は気に入っておられますでしょうか?
私は、今現在の苗字は、気に入っています。
----というのは、私は過去に二度結婚し二度離婚し 二度とも離婚時に苗字を戻さなかったので、今は二度目の夫の つまり三度目の苗字なのです。
生まれた時からの苗字は嫌でなりませんでした。
何故なら、非常に非常に多い苗字だったからです。
病院で呼ばれたから立ち上がると私じゃなかったり、クラスに同じ苗字の子がいたり・・・・・。
だから子供の頃から、結婚して苗字が変われることを大変楽しみに生きておりました。
ところが----
結婚した相手は、今までと負けず劣らず多い苗字の人だったのです。
しまったと思いましたが後の祭りでした。
独身時と同じ不便さとつまらなさを味わいました。
そうこうするうち離婚することになりました。 決して苗字に不服だったからというのが理由ではありませんでしたが。
苗字を戻さなかったのは、戻してしまうと精神的にも結婚前の過去に戻るような気がしたからです。
どちらも嫌いな苗字なら、過去に戻らないだけいいと思ったのです。
そして、再婚し また新たな苗字になりました。
今度は、やや多いほうだけれどひどく多くはない といった程度の数です。
病院で名前を呼ばれて立ち上がっても 「あ、私じゃなかった」と恥をかくこともなく、身近に同じ苗字の人もいません。
逆に、読めない人・書けない人がいて説明に難儀をすることもありません。
離婚時には、なんだかいい置き土産を貰ったぞ!といった気持ちでした。
気に入っているからあえて今の苗字を貫いている というわけではありませんが、今のところ 私のこの苗字が変わる予定はありません。
李下に冠を正さず [独り言]
みなさんは、デパートやスーパー等で買い物をしている時、売り場で「あ!眼鏡を鞄から出したいな」「バックの中に入れてあるメモ書きを確認したいな」と思われることが しばしばおありなのではないでしょうか?
そんな時、すぐさま眼鏡やメモ書きを取り出しておられますでしょうか?
私・ぼんぼちは、そうはしません。
必ず、一旦 その場から離れ、商品の置いてないスペースや店員さんの近くに行って 出してます。
万引きと誤解されないためです。
李下に冠を正さず-----これは、社会生活を送る上で 非常に大切な事だと思うのです。
あらぬ誤解を受けて 不必要に不愉快な思いをする事なく、毎日 気持ちよく買い物をしたいものです。
そんな時、すぐさま眼鏡やメモ書きを取り出しておられますでしょうか?
私・ぼんぼちは、そうはしません。
必ず、一旦 その場から離れ、商品の置いてないスペースや店員さんの近くに行って 出してます。
万引きと誤解されないためです。
李下に冠を正さず-----これは、社会生活を送る上で 非常に大切な事だと思うのです。
あらぬ誤解を受けて 不必要に不愉快な思いをする事なく、毎日 気持ちよく買い物をしたいものです。
タグ:李下に冠を正さず
立川の喫茶店「珈琲はなや」が閉店 [独り言]
以前、過去記事でも紹介しやしたが、東京郊外の繁華街・立川の駅近くに「珈琲はなや」という 昭和の香りに溢れる アレンジコーヒーの幾種類もある 小さな喫茶店がありやした。
それがなんと!二カ月ぶりに訪れたら なくなっているのでやす。
シャッターは閉まっていて内部は覗けやせんでやしたが、イマドキのカフェであるらしい外壁と店名へと変貌してやした。
二カ月前は、閉店の予感など感じさせることなく元気に営業していたので、突然のショックに あっしは店前で へなへなと膝から崩れ落ちてしまいやした。
こういうケースに、あっしは、数限りなく遭遇してやす。
立川の他の店でも 隣町の以前あっしが住んでいた国立でも それ以外の街でも、あっしは幾度 このへなへなを体験してきたでやしょう。
かつては、どこの街のあっちにもこっちにもうじゃうじゃと在った喫茶店が 次々と姿を消してゆくのでやす。
街とは移り変わるもの、物事には了りがあるもの-----それは百も承知でやす。
しかし、あっしは昔ながらの喫茶店でないと 心ほぐれる至福の時を過ごすことが出来ないのでやす。
----そのうち、あっしの心ほぐれる場所は、東京から一つもなくなってしまうかも知れやせん。
そうしたら、あっしの精神は、いったいどうやって生きながらえればよいのでやしょう・・・・・・・・・?
家庭教師との思ひ出 [独り言]
小学四年から高校三年までの間、入れ替わり立ち替わり 延べ人数にするとかなりの人数の大学生の家庭教師に、学科の勉強を教えに来てもらっていた。
大学生と子供 といえども人間対人間なので、相性の良い人とそうでない人がいた。
中、すば抜けて良い人がいた。 私が中学二年の時だった。
-----その人は、津田塾の女子大生だった。
物静かな性格で、いつも およそ若い女性が着るものとは思えないような地味で野暮ったい服に身を包んだ ぼってりとエラの張った不美人だった。
私とは内向的な大人しい性格同志であることと 彼女が少しも年上ぶらない謙虚な人だったということから 意気投合した。
休憩のお茶の時間に、日曜日に原宿で求めたアクセサリーを自慢気に披露したり、津田塾の学園祭に呼ばれてトコトコと出掛けたり、たこ焼き器を買ったのでおいでと招かれ 彼女のアパートまで遊びに行ったり、お洒落のしかたが解からないから連れて行って教えてほしいと頼まれ 原宿を案内したりもした。
原宿では、私の行きつけの喫茶店や服屋やアクセサリー店をひと巡りした。
彼女は、この店にこんなものが売られていたのか?!と驚くような 地方の小さな町のスーパーにありそうな手袋を選び出し 購入していた。
彼女は今頃、いいおばあちゃんになっているだろうか?
孫に囲まれ 静かに笑っているだろうか?
元気にしていてくれたら 嬉しい。